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後漢帝国の政治

 新朝に対する反乱の中で勢力をのばした漢の一族の劉秀(光武帝)は、25年漢を復興した。光武帝は都を洛陽に移し、子の明帝、孫の章帝の3代にわたって漢王朝の再興につとめたが、帝権は弱く、王莽の復古主義にも農民の蜂起にも対立する立場にある豪族らの支持によって成り立つ政権であった。章帝以後は幼少の皇帝が多く、外戚と宦官が権力をめぐって対立し、専権をふるう宦官を非難した官僚や学者が弾圧される事件(党錮の禁)も起こった。
 このような政界の混乱に加え、飢饉・水害が起こり社会不安が強まる中で、農民を中心に黄巾の乱が起こった。これは太平道という宗教団体の主唱者であった張角によって指導された反乱である。その後、五斗米道の反乱もあり、後漢は治安維持のため地方長官に権限を与えて鎮定にあたらせたが、長官が公然と軍隊をもつようになり、農民・流民を支配下に入れた豪族と結びつくなどして、かえって群雄割拠の傾向が強まり、220年後漢は崩壊した。




明帝(みんてい)
五斗米道(ごとべいどう)


184年 言わしておいたが乱のもと(黄巾の乱)
220年 夫婦おわかれ漢滅ぶ

by marone_marona | 2008-06-28 10:55 | 4

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